昭和四十三年十一月十日 朝の御理解
X御理解第六十一節
神より金光大神に何時までも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。
信心して、おかげを受けたら神心となりて、人に丁寧に話をして行くのが、真の道を履んで行くのぞ。
金光大神が教えた事を、違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが神への御礼ぞ。
神になりても、神より上になるとはおもうな。
いつの場合でも感ずるのですけれども、教祖の御教御理解と言うものが、その深さと言うか、広さと言うか、本当に、その尽きぬ広さと申しましょうか、もう唯々いつの場合でも驚くばかりです。
この六十一節も、これ迄様々に頂いてまいりましたけれども、この六十一節は、金光教教典の全て、教えの全てが、、この六十一節に、言わば、結集されてしまってもよい程の内容を持っておる事です。
これは、金光教教典に限った事ではありません。宗教の全て、宗教が教えようとするもの、分からせようとするもの、これは、あらゆる宗教が、ここのところを説こうとして、分らせようとして、そして、中々分からない難しいところなんですよ。
どこを、どう言っても真に有難い事なんですけれどもね。
神になりても、神より上に なろうとは思うな、
ここでは慢心を戒められたと言う感じですが、確かにそうですね、神様より上になると思う様な、思いは毛頭思いませんけれども、やはり段々お徳を受けて、人が助かってくる様になりますと、やっぱり、そう言う様な慢心ごころと言うのも出てくるかもしれません。 けれども、私共は、お互い神より上になろうとは思わなくても、又神より上になろうとは思うてもいないのですけれどもね、分らんなりに、神より上になっておる場合がある。
自分が気付かんなりに神様より上の立場にある様な事がある。 「金光大神」の御伝記の中に、
神を神として用いる
と有ります。
これは、御伝記の中では、神を神と立てゝくれると説いてあります、例えば子が親を立てるとか、先輩を立てるとか言いますが、
神を神として立てると言う風にのみ説いてあります。これは、こゝんところは、、それもそうでしょうけれども、神を神として使うてくれと言う忌みもあろうと私は思うのです。
これは、そうです、俗な分り易い言葉で言うならば、親でもです、子供に使われて、こき使うと言うのでなくて、親を「ちょっとおばあちゃん、これをしておいて下さい」「ちょっとお父さん、これ、お願いしますよ」「おいおい」と言うて、そのかえって使われて嬉しいと言う様な、使い方とでも申しますか、
親を使っっておる様ですけれども、親も喜ぶ自分もお陰頂くと言う場合がありますでしょうが。
親がしようとすると、それもせんでよか、あれもせんでよかと言うて、例えば、その、かえってさせん事を、親が不服を言う様な場合すらがありますもんね、ですから、こう言う意味合いに於て、金光大神は、素晴らしい、神を用い、神を使われたと思うのです。神様は率先して、金光大神の為喜んで働いておられると言う感じすらがします。同時に神を神と用いてくれる、神を神と立てゝくれる。
教祖様の弟さんに繁右衛門と言う人がいた、非常に霊能者であった、教祖様より一足先に、いろいろ神様から、お知らせを頂かれる様になった方です。
まあ、こゝら辺で言うと、狐つきとでも申します、いわゆる、気がふれられた様な時もあった訳なんですが、そう言う様な時に弟さんが、兄であるところの教祖様を呼びつけておられる。
そして、いろんな事を、借金あるから払うてくれとか、家の建築を頼むとかと言う事を頼んでおられます。それは、繁右衛門さんと言う人が頼まれるのでなくて、繁右衛門さんに、かゝっておられる神様が頼んでおられる。
それを、ひとつひとつ、してあげましょうしてあげましょうと言うておられます。してあげましょうと言うてありますけれども、内容は、さして頂きましょうと、こう言う訳なんですね。
神様が頼まれるんであるから、さして頂こうと、こう言うので ある。
そう言う時に、教祖様へ対して、神様がですね、神を神と用いてくれて、有難いと言う意味の事を言うておられます。
神様の言われる事を、まあ繁右衛門さんに、のり移っておられる神様ですから、まあ、低級視してもいゝ訳です。気違いの言う事は聞くなと、普通で言えば、言うても良い訳なのです。
それでも、それが例えば、気がふれた、気違いの様な状態でおられる繁右衛門さんに対してでもです、神様がのり移ってござる、神様と名がつけばです、それを、言わば、軽う見ておられない借金払いもしてあげましょう。家もきれいにしてあげましょうと言うて、それを実意丁寧に、それをなさっておられます。
そこで、その神を神として用いてくれて嬉しいと、言うておられます、神の顔を立てゝくれると、こう言う訳なんです、
そう言う場合に、神を神と用いてくれる事を有難いと言うてありますけれども、ある意味合いに於ては、教祖様は神様を、言うならば親が子供を上手に使う様に、それも親が喜んで、それの使い走りでも、子供の為に親が働く様に、よう使ってござると言う感じも致します。
ところが、その、私共の場合なんですよ、神様が言うならば、謎をかけられてもです、それを、分っておっても、知らん顔をしておる、神を神と用いていない、
こうあってくれよ、こうしてくれよと、例えば言うておられても、そうすれば神様が喜びなさる事は、分っとるばってん、せん。……神を神と用いない訳です、
同時に、神様を喜んで働かせる様な、用い方も出来ない。もう誰々の為なら、喜んで働いて下さると言う働かせ方を、神様にさせきらん。
そうして、どう言うかと言うと、神様は、いやな思いをしてござってもです、そう言う事は関係なく、そういう様な事はもう無頓着、そして、無理無体に神を使おうとする、これは、親と思うて使いよるのじゃない、まるきり自分の召使いの様に思うて、使いよるのと同じ事なんだ。言うならもう無理無体、
金が足りませんから金を下さい、体が悪いからこゝんところを丈夫にして下さい、神の思いも分ろうとせずに、唯、神を無理無体にする。
それは、正しく、神よりも上になっておるとは、こう言う事だと思うのです。自分の都合のよか時だけ神様に願うとか頼むと言うのは、これは、もう正しく、神より上になっておる姿、それは、実際は神様を使おうとは思わない、神様より上になるてん、でけんと思うとる。そして、どこへ集金に行って来い、あれをせろ、これをせろと、例えば主人が召使いを使う様に、神様を使うておるのは、私は、神より上になっておる姿だと思うのです。
神様も喜んで私共子供の為に、手になり足になりして働く事を喜んで下さる。喜んでして下さると言う方、けれども、無理無体に使うては、神様も喜んで下さらん、あんまり地団太踏んで言うから、場合には、それこそ、重いみこしを上げて、神様が働いて下さるにしても、
そこんところを、 信心は親に孝行するも同じ事ぞや、
と言う様に、孝子が親に仕える様な気持、神様へ奉仕する、神様も又喜んで氏子の為に奉仕して下さる、いわゆる、あいよかけよである。
その、あいよかけよと言う事にならないでです、唯、神様を使うと言う事だけに、一生懸命すがるとか修行すると言うならば、これは、もう自分は、神より上になったとは思うてないけれども、よくよく考えてみると、神より上になった、それは姿であるから、それでは、お陰にならん。
そこで六十節の初めのところから、頂いてみなければいけません。只今申しました様な事が一辺頭に入ってこゝのところが、よく分らして頂いて、初めから頂きますと、成る程、宗教全般、言うなら、金光教で言うなら、この教典全般の事がです、こゝに結集されてあると言う事が分ってくる。
一心に頼め、おあかげは和賀心にあり
とおっしゃっておられるけれども、一心に頼むと言う事は、自分自身の心の中に、和らぎ賀ぶ心を頂かしてもらい、その和らぎ賀ぶ心に、ならして頂くと言う事はです、神様が喜んで氏子の為に働いて下さる事の出来れる、働きになってくると私は思う。
これは神様を、こき使うと言うのじゃなくて、神様が喜んで使われて下ささると言う事になるのです。その、一言だけでも、こゝのところが、どの位素晴らしいかと言う事が分かるでしょう。
そこのところが六十一節のところを読んでみると、よう分ります。 神より金光大神に尽きぬおかげ
を話にしておくのぞ、
とおっしゃる。いわゆる、尽きぬおかげ、限りのないおかげ、神様が限りなく喜んで下さる事の出来る、そのおかげを頂ける話を、金光大神に伝えておって下さるのである。
信心しておかげを受けたら……
とは、その様な事が分らして頂いて、おかげを受けたらと言うのである。
その様な事が分らして頂いて、信心は親に孝行するのも同じ事ぞやと言った様な事が分らせて頂いて、おかげを受けたら、
もう無理無体にお願いして、おかげを受けたらと言うのとは違う。 神心となりて、人に丁寧に話を
していくのが真の道を履んでいくのぞ、
なる程、これなら、真の道を履んでいけれると思うのです。なる程、神心となれると思うのです。なる程、実意丁寧に人に伝えていかねばおられんのです。
金光大神が教えた事を違わぬ
ように、人に伝えて、真の信心を
させるのが神への御礼ぞ、
なる程、これなら、最高の御礼になるだろうと思う。
これが神になるのぞ。
とおっしゃる。なる程これならば、神になる事が出来る。
「信心とは、わが心が神に向かうのを信心と言うのじゃ」と、おっしゃるが、
こゝの一節一節が、一句一句が、もう全て、神より上になるなと言う事を、私、先に説明したでしょう、
その説明を、自分の心の中に入れておいて、ここのところを読ませて頂くと、一節一節が、なる程、なる程と合点がいくのです。
なる程、これならば、神になれる。
神になりても神より上になる
とは思うな。
だから、これを、全部読ませて頂いて、最後のところを頂きますと、だから、そこのところも、やはり今迄頂いて参りました様に、
例えば、私共の慢心が神よりも上になる、そう言う様な人達が私共の金光教の中にも前例があるのです。
教祖様の御時代、大谷の金光大神の事を、麦めし金神と世間では言うておった。笠岡の金光大神を、米めし金神と当時、人が言っておった。
大谷を通り超えて、笠岡の金光大神の所へ人々がお参りをしたと言う位に、御比礼が立ったんですねえ。そして、その金光大神も、教祖様の事をです、悪口言っておられます。
「何んじゃら、かんじゃら分らん、いつもぶつぶつばっかり言うちから」と言う様な事を言われた、
これは、いわゆる、自分のとこは米めし金神で、大谷の教祖様のところは、麦めし金神と、これは自分で言われた訳じゃないけれども、世間が、そう言う位にです、羽振りをきかせられた金光大神です。
けれども、それが金光大神の大怪我の元になって、大変な難儀を受けられる元になっておられるのです。
その金光大神のぶつぶつ言っておられると言う事が、実は大変な事なんですよ。それは、「金光大神」も説明がしてありませんよね、何故ぶつぶつ言っておられたかは分らん。
けれどもそのぶつぶつこそが、素晴らしい。いわゆる麦めし金神と言われる教祖様のところが、素晴らしかったと私は思うのです、
そこで、ここで私共が分らせて頂かねばならん事は、神様がようもようも一辺で桜の花が咲く様な、桜の花のお陰を下さらずに、もうそれは、遅々、刻々かも分らない。
本当に、一分一厘ずつか分らないけれども、そんなら十年、二十年と信心を続けてこられた、丁度、赤子に、乳を与える様に、遅々としてお陰を下さったと言う事がです、有難いのであり、
お乳があんまり多いと、赤ちゃんがむせて、コホンと言うでしょうが、そう言う下さり方をなさらずに、三つの時には三つだけ、五つの時には五つだけの、乳をお与え下さってあると言う事がです、実を言うたら、有難いんだと、
こちらの信心の成長に従って、お陰を下さってあると言う事が有難い。こちたの信心の成長も願わず、成長しておる事も分らず、例えば子供が大人のものを欲しがる様な、ものの欲しがり方をしておる様な、自分達の信心そのものをです、分らしてもろうて、詫びるところを詫び、礼を言うところを礼を言わねばならぬ事を、私は、ここから分らして頂く感じが致します。
そう言う様な、自分の信心もわきまえずに、願っておる願いと言った様なものは、これは今日の御理解のところから頂きますと、神を無理無体使うと言う事になるのです。 例えば、自分の足にはかせて頂く足袋と言うものをです、自分は八文しか履けない足でありながら、十文の足袋を願う様なものなんです。
神様が下さるはずがない。お前には八文が丁度よかぞと言うて、八文をやられる、これではお陰の頂きたらん様に思うて、十文を願う。
これは、言うならば、親の心を分らずに、親に無理無体を言うておる様なもの、
自分では使いこなしが出来ないのに、スカスカ切れる日本刀をくれと言うて願っておる様なもの、やったらよかろうけれども、そんな事しよったら、子供自身が怪我をする。
他人を怪我させる。そう言う様な事があってはならんから、神様は下さらんのであり、親は買ってきてはやらんのである。その訳も分らずに、やはりスカスカ切れる刀をくれと言うて、願っている様なものである。
それが、頂きこなせる様なおかげを頂いた時に、神様は、喜んで下さる、そのお陰を待たずして、そこを願わずして、
ですから、今私に此の様なお陰を下さると、神様がおっしゃっても仲々、私はそれを、よう使いこなしきりません。
例えば、ここに一千万円と言うお金を、神様が下さろうとしておる。それを私共が、はあ有難うございましたと言うて頂くか、又それを、一千万円を一千万円としての、値打の使いこなしが出来んのに、それを頂くとするか、
それによって、自分も怪我する人も怪我させる。
昨日、ある方がお参りしてきて「私はもう一生、贅沢はしません」と言うて、お届けをされるのです。 なる程、今迄のあゝた達は、確かに、お金が入れば入っただけ、それを贅沢な事の上にも使ってきた、それを、気付かせて頂いた事は有難い。しかしね、00さん、あゝた達が一生贅沢はしませんと言う事が、神様のお喜びになるかと言うと、決してそうじゃないばいと、私が申しました。
世の中には、例えば、何十万円もする着物も、ちゃんと、人間の為に作っておいて下さった。いわゆる食物でも、百円のものもあれば千円のものもある。
私は一生何万円もする着物は着ません、千円以上するもする食べ物は頂きませんと言うたら、これは親の方がじゅつなか、本当言うと。
昨日の朝の「おごりがましい事をすな」と言うところから気付かれたんでしょう。けれどもね、それが頂ける様になったら、無理せんでも頂ける様になったら、それは有難く頂いてえゝ、
もう自分で届かんと、下に踏みつぎを持って来てゞも取ろうとする、それがいけんのであって、分に相応したものならばです、最高のものが身につけられ、最高のものが食べられる様な、お陰を頂いてこそ、神様は喜んで下さるのだから、いつも、自分と言う者を、はっきり見極めて、 いつも一生、粗末なものを、着たり、食べたりすると言うのでなくてゞす、それが段々頂けて来る様なお陰を頂かねばならんけれども、まず、あゝた達にとっては、なる程、今あゝたが言うておる様に、金輪際、贅沢はしませんと言う、生き方でいくが本当だねと言うて、話した事ですけれどもね、
丁度、この六十一節から、私共が日々頂いておるところのおかげ、それを本当に、あまりにも淡々として、もう本当に、言うならば何気ない風に神様が丁度、食べ過ぎもせん、と言うて足らんと言う事もないと言う様に、適当に下されてあると言う事をです、先ず私共分からしてもろうて、先ずそこんところえ、お礼の申し上げれる信心が、ならないと言う風に思います。いわゆる御礼の信心とはそこんところが分かって初めて、御礼の信心が出来るのじゃなかろうか、特別のものを頂いたから御礼を言うのじゃない、
日々こうやって、適当に、お生かしのお陰を頂いておると言う事に御礼を申し上げる信心、
私は今日、此の事ついて、いろいろ申しましたが、皆さん、私の話を聞いて下さりながらです、なる程、金光教教典の全てが今日、私が申しました様な事を、分からせる為に、この教典があると言う風に感じられませんですか、
宗教の全般、これは金光教だけではない、それは人間にそこんところを分らせたい、
「あまねく一切、あまねく衆生に及ぼす」と言った様な事葉がありますねえ。
いわゆる、あまねく一切、あまねく衆生に及ぼしていけれると言うお陰げ。
それは、ここのところを悟らせてもらい、分らせてもらい、そこんところを「神より金光大神にいつ迄も尽きぬおかげを話にして残しておく」とおっしゃるのは、この辺のところではなかろうかと私は思うのです。
今回は皆さん大変難かしい事を頂いた訳ですが、まあ、分り易く言うなば、一番最後の、
神になりても、神より上になろうとは思うな、
と言うのは、私共が慢心しちゃならないとゆう響きをこゝでは一番う強く受けます。
けれども私共がそれをちょっと、深めて参りますとです、慢心をしておつもりではないけれども、確かに神より上になっておる様な日常ではなかろうか、
神様をまるきり、召使いの様に使い廻しておる様な事ではなかろうか、と言うてその召使いが、今度は、よく働かんとです、召使いに対して不足を言う、神様に対して不足を言う。
そう言う様なものは既に神様より上になっておる様なものであるからお陰にはならん。一番初めから、ずっと読み下さして頂いてです。そこんところが分らして頂くところに、この一行一句一節がです、素晴らしい言葉になって、私共の心に響いてくる。
なる程これならば、神になれるであろう、なる程これならば、神様が喜んで下さるであろう、なる程これが真の道を履んでいくのであろうと言う事がです、この神より上になろうとは思うなと言う信心が身についた時初めて、それが出来ると言う感じが致します。
金光大神は、天地の親神様を、言うならば、素晴らしい用い方をなさった「神を神と用いてくれる」いわゆる、神を神と立てゝくれる。
ここんところが大事、同時に、
「神を神と用いてくれる」こゝんところを、神を使うてくれる、親を使うてくれる、
神を使われたと言う事について、金光大神は素晴らしい使い方をなさった。使うと言う事は、ちょっと言葉がおかしいですけれども、 神様が喜んで、金光大神の為に働いていられる、そう言う働きの出来る様な、元をですね、教祖様はそういう働きをなさっておられる、
金光大神が言う事なら、はいはいと言うて、親の方が働いて下さってある様な状態である。金光大神が言う事なら、どう言う事でも聞こうと言うておられるのは、そう言う意味だと、私は思うのです。 そう言う用い方をなさった、言わば天才人でおありになった、と言う事と同時に神様からは、「神を神と用いてくれる」親を親と立てゝくれると言う両面を、そこから頂かせてもらいます。
私は、今日は、初めて、そう言う風に頂きました。感じました。そこんところをです、
「神より上になるな」とおっしゃる、私共の場合は、そこんところが両方が出来ずに、唯、神様を酷使する、神様を無理無体に使う、と言う様な事をです、それを、神より上になるなとはおもわんなりに、そう言う神様の使い方をしておる、
これでは、確かに神より上になっておる、使用人が主人を使うておるのですから、そこに本当の喜びも感じさせて頂けんのだとも思います。 どうぞ